勉強とボウリングを両立させてた昔話
皆さん、こんにちは! Ken.Sです!
少し前に関東学生ボウリング連盟OBの先輩が、学生時代の話をtwitterに載せていました。その方は、ジュニアの頃からボウリングをしていて東大に現役合格、卒業後ナショナルチームに在籍する等文武両道という言葉がすごく似合う私の尊敬している方の一人です。その方のツイートがすごい反響していて、学歴やボウリングの腕などはその方に劣りますがニーズがあればいいな、ということでどう勉強していたかなど自分の昔話を書いていこうと思います(二番煎じとか言わないで)。
この話を書くもう一つの理由として、早稲田大学に進学したいと思うジュニアボウラーが少しでも多くなればいいなという思いもあります。学部生時代、早稲田に入りたいけど勉強はしたくない、できないといったお声を何回か頂きました。確かに簡単に入れる大学ではないかもしれません。しかし、ボウリングを続けながらも入れるということを皆さんにお伝えできればいいなと思い、ブログにまとめさせてもらいます。私も中学の頃には落ちこぼれを経験しました。しかし私は成長した時には環境の変化がありました。これが読んでくださってる方へ良いアドバイスになればいいなと思っています。
特にジュニアボウラーの方や、お子さんがボウリングをしているという親御さんに読んでいただけたら幸いです。
小学生時代
勉強面
低学年の頃は、授業中積極的に発言し問題を答える優秀な生徒だったと思います。好奇心旺盛だったので、それが活きたのかなと思います。クラスの何人かは塾に通っていたみたいですが、私はこの頃はまだ通っていなかったです。「塾に行ってないのに、この問題解けるのすごい!」と褒められたのが嬉しかったのを今でも覚えています。その頃自分は頭が良いものだと思っていました。
高学年になると、集団指導と個別指導の塾二つに通い始め、5年生くらいからは個別指導(明光義塾)一つにしました。しかしそこで受けた小学生模擬試験で洗礼を受けます。偏差値60はいくだろ、とか思ってました(その難しさすら知らない子供だったなぁ)。しかし結果は50すらいかない平均以下。文系科目に至っては40もいってなかった記憶があります。気付けば小学校のクラスでもこの人は自分より上だ、と思う生徒がどんどん増え、落ち込むこともありました。自尊心が高かったなぁ。
ただ、ボウリング部のある青稜中学に入りたいと思うようになってからは、あまり周りの事は気にならなくなった感じです。青稜に行ければいいや、って感じです。行ってた塾が中学生や高校生もいたので、その人達と話すのも楽しいということで塾に結構入り浸ってました。塾に行きだしたのが一つの環境の変化でした。人生で一番勉強したのはこの時期だと思います(今もっとやれ)。しかし自主的に勉強したということはあまりなく、学校や塾の宿題をこなすのがほとんどでした。放課後~塾間も多少遊んでいましたし、塾後も宿題が終わればテレビを見てました。印象に残っている塾での勉強法は、解けなかった問題を講師の方ともう一回解く復習です。定期的に模試があって、解けない問題も多かったので良い勉強法だったなと思います。
中学受験は高校受験や大学受験と違い、複数回受験できます。青稜は確か最大5回受けられました。受験が近くなってもいいとこ50%かなくらいの成績でしたが、2回目の受験で合格しました。
この時に大事だったなと思うことは、自分はできるもんだと思い込んでたことです。確かに小3くらいまではテストは大体満点で理解できないということは無かったと思います(大体の子がそうでした)。低学年での一番の壁は九九と言われていますが、私は天才バカボンのソフト?があり、歌で覚えたり、九九の問題をPCで回答するのをやっていたのであまり苦にしなかったです。しかし、学年が上がるにつれ周りとの差を感じました。ちょっと前は出来てたというのと、勉強ができないとは思われたくないという見栄で勉強してました。今思うと、小さい見栄ですがそれが活力になったのは良かったと思います。そしてこの見栄が後にも活きています。一番仲良かった友達が「俺は絶対一橋大学に入る」と言ってて実現したかは分かりませんが、一緒に勉強を頑張る友達がいたというのも大きかったです。
ボウリング面
地元のボウリング場のスクールが小3から入れるということで、それを知った小1から2年間待ちに待ってそのスクールに入りました。知識面や技術など教わりましたが、基本は投げて遊ぶといった環境でした。中古ボールを頂いてボールを作り、小6の最後に初めて200点いったのを覚えています。けど今は小学生でも2000/9Gとか出してる子がいてすごいなぁと思います。この頃は、狙うスパットはいつでも同じところだしレーン変化なんて知らなかったです。今の子よりかは全然知らないと思います。
ボウリングを続けた大きな要因は、やってて楽しかったことです。スクールも少し上のお兄さんお姉さんに可愛がってもらい、祖母の家の近くにある六甲ボウルの方にも大変よくしてもらいました。大学生になって新人戦で六甲行った時は嬉しかったなあ。
中学生時代
勉強面
中学で勉強に対する環境と意識の変化がありましたので、ここは長くなります。
中1の頃は、定期試験に対して勉強するということを全くしてませんでした。得意な理系科目や、小6の最後に塾で習った英語はなんとかなってました(平均点はギリクリアするくらい)。しかし文系科目は一切できず、地理は20点台を二回出しました。一年前の中学受験ではあれだけ勉強したのに全く勉強せず、何をしていたのかすら覚えてません…。50位/250人程だった順位も下から数えた方が早いくらいまで落ちこぼれました。成績が悪い生徒が強制的に受けさせられる基礎講習に引っかかるくらいになりました。
青稜は中2になると、一つのクラスに成績優秀者を集めた優クラス(約40人)を作ります。当然そのクラスに入れるわけもなく、一般クラスに割り振られます。その頃から、定期試験で良い成績(クラスで何位、学年何位)を取ると小遣いボーナスが支給される制度が我が家でできました。
定期試験前は部活は無かったので、中2以降基本的に部屋に籠って対策してました。中3くらいから近くのボウリング場に行って練習して、その後勉強してました。定期試験前でなくても、試合でない限り勉強しない日はあまり作ってなかったです。1~2時間宿題か分からない範囲を潰して、授業中に話が一切分からないということは避けました。反省として、文系科目はもっと授業の話を聞いて「流れ」を理解するようにすればよかったなと思っています。勉強方法としては、最初30分はYouTube流しながらやって、机に向かう理由を作りました。
結果として中2後半の定期試験で、学年7位に入る結果が出ました!小遣いという小さいインセンティブが、大きな成長に繋がりました。一回良い成績を取ると、まぐれだと思われたくないのでまた頑張り、中3の頃には優クラスに入るまでになりました。ここの環境の変化が自分は一番大きいと思っています。
中2の時、実はあまり優クラスに入りたくないなと思ってました(今だから言えることかも)。レベル高い中に入って劣等感を感じたくないという小さい見栄です。それだったら一般クラスでクラス一位取って満足してたいとか思ってました。しかし実際に優クラスに入ると、落ちたくないので頑張ります。そして、クラスメイトみんな勉強ができるので、質問したり教えてもらったり勉強するには最適な環境でした。また、そんなクラスなのでクラス平均点は異常に高かったです。得意科目も苦手科目もそこが良い目標になっていました。得意科目では平均点以下は取りたくないし、苦手科目なら平均点越えれば自身になります。この良い点数取りたいという見栄と優クラスでありたいというプライドが作るプレッシャーが、勉強するモチベーションになってました。優クラスに入ってよかったなと本当に思います。
この期間は、落ちこぼれから優クラスまで幅広い経験をしました。環境の違いを多く感じ、それがまた活きたのかなと思います。
ボウリング面
中1で都大会5位になって初めてそしてそこから3年間全国大会に出ました。が、これといった成績は無く、中3最後に関東3位になったくらいです(ボウラー人口は少ない)。
ボールの違いやレーン変化もまだ分からず、中3最後の都大会で遅くなったレーンに対応できず4の字したのを覚えています。最後に思いきり内に寄ったらよかったけどその景色が初めてで対応が難しかった記憶があります。曲がるボールが良いという勘違いもあり、多少のコントロールとハマれば打てる(けど長続きしない)程度のボウラーでした。
しかし、中3の途中から支部リーグに参加したことにより第一次成長期に入ります。経験豊富な方が多くいたので、基本的なレーン対応や1ゲーム勝負の流れ運びなどを学ばせてもらいました。私が一番大きい学びと思うのは、負けず嫌いな方が多くいたので本気で勝負する楽しさと負けた悔しさを知ったことです。そんな本気の勝負を毎週できたのは、とても大きい経験になりました。ビアがかかったフレームになるたびに皆さんが集まってきたのは懐かしいなぁ。
高校生時代
勉強面
高2から文理でクラスが分かれましたが、なんとか理系優クラスを維持しました。高校生になると模試が多くなり、定期試験対策に加えて幅広く勉強しなければなりません。定期試験対策で成り上がった身なので、模試対策もちゃんとやらねばなりません。定期試験前では青チャートや重要問題集、単語帳などをやってました。休みの日にはセンター試験を解いたりなど、基本的には勉強に打ち込んでました。高2まではこの大学に行きたい、とかはあまりなく名の知れたところに行ければいいなくらいに思っていたのですが、高3になって定期試験などの学校の成績や部活動や生徒会への取り組みなどが評価される「指定校推薦」があることを知りました(遅い)。やっとどういう大学に行くかを考えるようになって、情報系の勉強がしたいなと思い早稲田大学へ行くことを決意しました。評定などの規準はクリアしていたのでその指定校推薦を利用しました。普段の勉強に加え志望理由書や面接練習などもしてました。
面接当日は最初の説明会から面接までの間、受験生が多かったこともあり結構長い時間待たされました。面接は緊張して上手く話せず、動揺して帰りの電車で逆方向に乗ってしまったりなどありましたが、なんとか合格しました。赤羽のナショナルトレーニングセンターにいる時に結果をもらったのが懐かしいです。
ボウリング面
定期試験前以外には基本的に毎日田町ハイレーンで練習してました。高1の高校対抗で結果を残すようになってからより一層練習するようになり、田町ハイレーン様のご厚意により様々なコンディションで練習させていただきました。ウッドとアーマーの二種類のレーンがあるセンターなんてもう無いんじゃないかな…。スタッフの方には本当によくしていただき、そんな環境があったからこそボウリングを続けられたと思います。
大学生時代
勉強面
正直、勉強はあんまりしてませんでした。両立はしてませんでしたね。テスト前に詰め込んで普通の成績を取るということを繰り返してました。ただプログラミングの授業だけは意欲的に受けてました(javaは分からなかった…)。学年が上がるにつれてだんだん難しくなるのに他の人は余裕そうにしているので焦りもありつつ、最初からちゃんとやっとけと定期的に反省してました(今もそう)。
就職は全く考えてなく、大学院の推薦を何とか取れたので修士課程に進学することを3年の終わりに確定させました。4年次に配属された研究室の先輩や同期がみんなすごかったので、ちゃんと勉強や研究するようになりました。これも環境の変化がもたらした大きな成長です。これらが今に繋がってます。例えば、日本からアメリカへ環境を変えることで成長できると思い留学を決意しました。変化を好むことができる人になりたいんなぁ。
ボウリング面
高校でできなかった全国タイトルを取ることに努力してました。中でも4年次の後半は一番悩んだけど自分の全盛期だったなと思います。大学時のボウリングの話をするととても長くなるので割愛しますが、自分の第二次成長期はこの時期で特に佐取プロに教わったことが大きいです。これも環境の変化かなと思います。今思うと一緒にジャパンオープンに出させてもらったことがこれだけの良い変化をもたらしたのかと、出会いってすごいなと思います。欠員が出たから代打お願いLINEに即答して良かったです。
私は漫画暗殺教室の「第二の刃」という言葉が大好きです。落ちこぼれのE組生徒が殺せんせーを暗殺できればいいから勉強しない、と言うとそれに殺せんせーが怒るというシーンです。優秀な暗殺者はメインの計画は上手くいかない方が多いからサブプランをいくつも用意する、などというエピソードから私も勉強とボウリング両方やっていて良かったと思います。特にジュニアボウラーの方にはボウリングはもちろんのこと、ボウリングだけでいいとはならずに他の分野(勉強に限らず)も取り組んでみてほしいと思います。ボウリングを行っている方は多いですがもう一つの分野も続けているってかなり珍しく個性が出ます。自分という一人の人間を形成するにはそういうことが重要なんだなと、就活を通じてですが感じました。
長くなりましたが、自分の人生を振り返ってみました。これがジュニアボウラーの方に少しでも刺さってくれたらいいなと思います。そして、早稲田に入学したいと思ってくれたらいいなと思います。
それでは!
See you next time!